2006年12月6日水曜日

愛知県 ホリエさま



以前勤めていた葬儀屋での心に残る葬儀です。

亡くなった方は50歳くらいの女性で、だいぶ年下のご主人が喪主を務められました。

女性は韓国籍の方でした。ご主人は日本人だったので葬儀は日本式の仏教のお葬式でしたが、死に装束だけは彼女の故郷の風習に習いたいということで、黄色のキレイなチョゴリを着させてあげました。
傍で見ていてもご主人の愛情の深さが分かり、本当に奥さんをなくされて肩を落とされている様子でした。

ずっと棺の傍らに付き添われ、出棺の前のお別れには奥様にキスをされ、出棺時には奥様の写真に「行って来るよ」と手を振られ、写真を持って見送りに立っていた私は思わず仕事も忘れ泣いてしまいそうでした。

(愛知県 : ホリエさま)

東京都  イグチさま



お嫁に来たばかりの頃です。

義母の父上(祖父、ですね)が亡くなられました。結婚するまでナースとして働いていた私は即座に祖父宅に呼ばれ、お体を拭かせて頂くというケアをさせて頂きました。

終の衣装にと用意してあった浴衣に着替えをする際、ご家族にも手伝っていただいて、ほんとうに家族が祖父を見送った。そんな感じがしてとても印象に残っています。

そして、音楽が好きだったという祖父の意思を継いで、お式は音楽葬でした。

懐かしい童謡やクラシックが響く中でのお式は初めてでしたので少し驚きました。
ご家族にお話をうかがうと、生前、自らが葬儀屋さんに出向き、この音楽を流してこういう式にしたい、とプランを練って予約しておいたというのです。

祖父のように、自分の好きなようにプランを組んであるお式は初めてでしたので印象に残っています。

(東京都 : イグチさま)

2006年11月15日水曜日

東京都 フジモトさま



私の祖母が他界したのは、今から3年半前の11月の終わりのことです。

享年92歳。戦争で夫を亡くし、ひとりで5人の子供を育て大変苦労をした人でした。でも、老後は5人の子供と12人の孫、12人のひ孫に囲まれ、ゲートボールと温泉を楽しむとてもすてきな優しい祖母でした。

8ヶ月入院した後、祖母が亡くなったその日、ひ孫の一人の男の子が病院で兵隊さんをみたそうです。おじいちゃんがむかえに来たんだ、これで安心して送り出せるね、と親族で話しました。

そのようにして旅立っていった祖母のお葬式は、50人近い親族に囲まれた悲しくもあるけど、どこかなごやかなものだったように思います。

私たちは、お葬式の当日、あわててランドセルを買いにいきました。

祖母は、それまで入学するひ孫にランドセルを買ってくれていました。亡くなる少し前に、ランドセルを買ってあげてとお金を渡されていたのです。

お葬式のあと、きれいに飾られた祭壇の前に4人のひ孫が並びました。赤いランドセルが1つと黒いランドセルが3つ。

大きいおばあちゃん(ひ孫にはそう呼ばれていました)ランドセルありがとう。

祭壇の中の祖母が、にっこり笑っていました。

(東京都:フジモトさま)

2006年11月2日木曜日

岡山県 ソダニさま



もう5年前のことになります。

今の主人と出会って婚約し、結婚式の準備に追われている幸せいっぱいだった頃、私の祖母が悪性腫瘍であることがわかりました。
入院して手術と抗がん剤の治療を繰り返しながら、一度は家に帰れたものの再発し、体のあちこちに転移が認められました。
再度入院することになり、まだ婚約中だった主人と何度もお見舞いに行きました。祖母には告知をしていませんでしたが、死を悟っているようで私たちにいろんな話をしてくれました。

それから2ヶ月後祖母は家族が見守る中、息を引き取りました。
私は祖母が大好きでした。思春期で親に反発していたころ、祖母だけは私の気持ちを理解し受け止めてくれ、だからこそ祖母の話には耳を傾けていました。そんな祖母ともう話ができなくなるかと思うと悲しくて、お通夜、お葬式の間中ずっと涙が止まりませんでした。最後のお別れのとき、お棺の中に祖母が元気だったころみんなで撮った写真と、私が書いた祖母への最後の手紙を一緒に入れてもらいました。

それから数ヵ月後、祖父が祖母の持ち物を片付けているとき、ある手紙を見つけ、私に届けてくれました。その手紙は、結婚式を延期するのがよいか考えていた私宛でした。

そこに書かれていたのは、もし自分が亡くなっても気にせず結婚式を挙げなさいということと、どんなにつらいことがあっても夫婦でお互いをいたわりながら助け合って頑張りなさいということでした。

その手紙を読み、大声で泣きました。きっと、私のことが心配だった祖母が、お葬式の日にお棺の中に入れた手紙の返事のかわりに天国から送ってくれたんだと今でも思っています。

現在、祖母の教えを胸に、主人と二人の子をもうけ、家族仲良く暮らしています。

(岡山県:ソダニさま)

2006年10月18日水曜日

北海道 スガワラさま



昔から何度か大病を患ってきた母でしたが、今回ははっきりと医者に余命を告げられ、きちんと身辺整理をして最後まで乱れることなく昨年旅立っていきました。

亡くなった後、私たち姉妹が困らぬようにと細かく記してった手紙が見つかりました。

お葬式の手配を始め、お世話になった方のお礼、果ては法事の話まで・・・。
そして、「派手なお葬式にはせぬように、お知らせする人も最低限に」と書いている中、「お花だけはいっぱい飾って欲しい」と遠慮したような小さな文字で記してありました。

花が大好きな母でした。

それを葬儀屋さんに伝えたところ快く応じて頂き、当日色とりどりに綺麗に飾られた花の中に母の笑顔がありました。それはそれは綺麗でした。
「後々悲しくなるので写真は撮らない」と決めていたことを後悔するくらい・・・。

派手な豪華さはありませんでしたが、母らしい素敵な式となりました。最後の親孝行。天国の母は、褒めてくれたでしょうか?

(北海道:スガワラさま)

2006年10月4日水曜日

大阪府 カワムラさま



今から10年程前に母方の祖母が亡くなりました。
数時間前までいつもどおり生活していたそうです。

突然のお通夜、そしてお葬式・・・

親戚一同、孫・ひ孫など部屋に入りきらないくらい集まりました。
母は8人兄妹なのです。

突然だったので皆泣き崩れていましたが、読経も終わり、久々にそろった親戚達は皆、近況報告や思い出話に花を咲かせ、お酒も入り、とてもにぎやかに。
『ばぁちゃんがみんな集めてくれたんだねぇ 0』・・・みんな泣きながら笑っていました。

当時20代の私は、
『私のお葬式もこんな風ににぎやかに送って欲しいから、子どもをたくさん産むぞ!!』というのが私の人生の目標になりました。

(大阪府:カワムラさま)

2006年9月20日水曜日

埼玉県 モリノさま



お亡くなりになったのは、主人の上司の女性で、私もすごくお世話になった方でした。

私は、その時妊娠5ヶ月でした。

私の実家の方では、妊婦がお葬式に参列のときは、お腹に鏡を付けて、ご遺体は直接見てはいけない。という風習があり、それに習って、お葬式のお手伝いをさせて頂きましたが、今思うと、きちんとお別れを出来ていない気がして、棺に直接その時折った鶴を入れれば良かった…。とものすごい後悔しています。

会社の人間でもない私を、会社のカラオケ大会に誘ってくれたり、社員旅行に誘ってくれたり…。

もっと、いろいろ教えて欲しかったです。

そんなお世話になったにも拘らず、私は、直接お顔を見ることもしないで…。
申し訳ない気持ちです。

風習も大切だけど、もっと大切な物があると、実感として、教えられました。

(埼玉県:モリノさま)

2006年9月6日水曜日

山口県 トモムラさま



私の1番の思い出のお葬式は、私のばあちゃんのお葬式です。

私はばあちゃん子でした。ばあちゃんが大好きでした。
ばあちゃんは、派手好きで、いつも人前ではおしゃれをして、社交的で、よくしゃべる楽しいばあちゃんでした。

そんなばあちゃんでしたので、葬儀ではたくさんのお友達がきてくださいました。

私と従妹で、御棺に入る前のばあちゃんのお化粧をしました。

葬儀屋さんには「あまり派手にしないほうがいいですよ」と言われたのですが、みんなにこれから会うわけだし、派手好きばあちゃん、天国でもいっぱいモテてほしい・友達も作ってほしいと思い「いつものばあちゃんのほうがいいと思うので、ばっちり化粧します」と伝えて、ばっちりと化粧をし、大好きな香水もしっかりとつけました。

“やっぱばあちゃんはこうでないとな 0”

親族一同納得したできばえでした。最後の最後まで、ばあちゃんらしい葬儀でした。今頃、天国でいっぱい友達もいて、モテているかな 0

(山口県:トモムラさま)

2006年8月17日木曜日

静岡県 モリオカさま



以前の職場は音楽教室の受付。
この教室で現役の先生が40代の若さで亡くなりました。

花と音楽が大好きだった先生。「音楽葬で・・・」という家族の希望もあり、大好きだったひまわりを中心に祭壇を作られました。

お葬式の日は朝からお世話になった生徒さんや同僚の先生が曲を順番に演奏、小さな子供さんから大人まで、今まで先生に習っていた曲などを演奏しました。演奏後には一人一人、選んで持ってきたひまわりなどの花を供える・・・という温かな雰囲気のお葬式でした。

最後に一人息子さんが「花と音楽の好きな母で、今まで自分は母の仕事をよく知らなかったけど、こんなに多くの方に愛されてんだと感謝してます」と弔辞を読まれ、涙、涙。

最後、出棺の際も以前に先生が弾いて録音してあった曲の中から選んだ曲を流しました。音楽が好きで生徒さんにも愛された先生だからこそのお葬式。
今でも心に焼き付いています。

(静岡県:モリオカさま)

2006年8月2日水曜日

神奈川県 カトウさま



葬儀後の火葬場にて待たされている間、お菓子と枝豆とお茶が出されました。
なんでこんな形の悪い枝豆を?と思っていたら喪主が

「枝豆食べてよ。今朝取って来たんだよ。あいつがいないからサ、俺が茹でたんだよ。こんなん(菓子)ばかりじゃ寂しいだろ?
あいつがいればもっと色々振る舞えたのに、悪いね。」

と言われ、胸が締め付けられる思いでした。

葬儀最後の棺桶を閉める時になかなか閉められず、
しばらくしてから大きな声で
「さよなら!」と言っていた声が、今でも耳に残っています。

(神奈川県:カトウさま)

2006年7月26日水曜日

柳本さま



「いい人に限って早く逝く」
ガンで急逝した伯父の死を惜しみ、父が呟いた言葉です。

伯父は笑顔の似合う自分に厳しく人に優しい、誠実で
働き者な人でした。
とても苦しい闘病生活を送っていたであろうに、
兄弟姉妹には心配させまいと、ベッドの中から手紙を書いて
コピーしたものを送ってきました。

葬式の写真は慣例に従った黒縁取りの陰気なものではなく、
いつもの明るい笑顔のカラーで、俳優のようないいお顔
の写真を使っていたのが印象的でした。
バックミュージックは生前に趣味として活躍されていた
合唱のものでした。

介護者であった伯母やその娘はガリガリにやせ衰えていながらも、
伯母は葬儀の途中、精根尽き果てて倒れましたが
精進落としの際も気丈に参加され、
とくに 娘さんは終始笑顔を絶やさず、涙を見せることなく
参列者たちを気遣っておられたのが印象的でした。

(柳本さま)

2006年7月12日水曜日

ペンネーム Y子さま



20年以上前ですが、私がまだ学生の頃、大好きだった祖母が他界しました。

12人もいる孫の中で、一番わたしのことを可愛がってくれていました。その様子は、他の従姉妹や叔母たちも焼きもちを焼くほどでした。

祖母が他界したのは夏休みの1日目の早朝で、夏休みに入ったら直ぐに行こうと思っていた日に亡くなり、母が「学校もあるし病院に来なくていい」と言って行かせてもらえず、すごく残念で今も悔やまれます。

その葬儀の時不謹慎にも笑ってしまったのです。
子供の私にとって 葬儀は退屈で眠いものです。葬儀も終わりかけた頃、そろそろ足の痺れを何とかしないと、とスイッチONにした時、従弟が私にものすごく面白い顔をひつこく向けてきて、どうしても我慢できませんでした。
で、かなり笑ってしまい、で、ものすごく母に叱られました。

私にとって忘れられない葬儀になりました。他界してからも祖母は私のところに数回来てくれたりして、
「生きていた時も亡くなってからもY子ばかり~」
と叔母には今だに焼きもちを焼かれています。

(ペンネーム:Y子さま)

2006年6月14日水曜日

兵庫県 前田さま



もう10年以上前、「おばちゃん」が亡くなりました。
おばちゃんは母の友人でした。

私には初めてのお通夜、お葬式。
親族ではないけれど、お骨も拾わせてもらいました。

おばちゃんが亡くなって悲しいけれど、、
それ以上に、今まで知らなかった、闘病中の話、大人の付き合いのこと、
いろんなことがわかってきて、とても悲しくなりました。

あれから・・

家族ぐるみの付き合いも遠ざかりました。
お墓参りもできません。
お家に行くこともなくなりました。

いろんなことが変わっていったのです。

もしかしたら、変わるのは仕方のないことだったのかもしれません。

(でも、あの頃の私にはわかりませんでした。)

今では、おばちゃんは、亡くなってからも私にたくさんのことを教えてくれてるのだ、と思ってます。

(兵庫県:前田さま)

2006年5月30日火曜日

広島県 中根さま



私が結婚して、会社に来たのが昭和47年6月(25歳)でした。
社長さん奥さんのご好意で ささやかでしたが、結婚式をして、新婚旅行に行かせてもらいました。
それから、私達夫婦は一緒に住むことになりました。
夜学に通っていた工場の女の子達も一緒の生活でした。

当時、今はありませんが、工場で奥さんも一緒に作業服を縫いながら女の子たちが夜学から帰ってくるのを待ってお世話をしていましたね
 仕事をしているからと私たち夫婦の食事も一緒に作り、子どものk君の世話をし、女の子の面倒も見ながら仕事にも携わっていて、ろくに夫婦の時間などありませんでしたね。

それでもいつもにこにこして我々に接していただきました。
また私たちに子供が出来てからは、その面倒も見ていただきました。
同居生活でしたので、本当に気の休まることはなかったと思います。

私たちの子供も一人、二人、三人となっても同じようにお世話をしていただきました。
K君も同じくらいの歳でしたから、手のかかる間中、子供の世話をしていただいた事になります。
我が子だけでも大変なことですが、他人の子まで本当に尽くしていただきました。

奥さんに作って貰った素うどんは格別の味がして、今でもあれが食べたいと思うことが有ります。
また白菜の漬物が絶品でいくらでも食べられる味でした。私の友達のM君も二、三度頂いたことがあり、彼もあの味が忘れられないと、今でも言います。

あれから30年、生活面においても 昔とは違ったそれぞれの居場所が出来、生活も安定して環境は一変しました。
奥さんも昔、苦労した分これからはゆっくりと余生を楽しむことが出来ると感じられたことでしょう。
しかし、神のいたずらでしょうか、その時間は余りにも短かったように思います。

体の弱かった社長を初めとして、多くの回りの人々の面倒を見てこられました。
きっとそんな奥さんの姿勢が会社を発展に導いたに違いありません。

今は もう恩返しをすることは出来ませんが この思いを少しでも社会にお返しすることが出来たらと思います。

(広島県:中根さま)

2006年4月12日水曜日

広島県 有木さま



いつもやさしかった義母を見送った子供たちの手紙です。
 
おばあちゃんへ
 おばあちゃん、病院でよくがんばったね。
 ぼくたち、わたしたちががんばるから、安心してください。
 おばあちゃんがいないのはさびしいけれど、
 ぼくたち、わたしたちががんばる から、天国で見守っていてね。
  
 どうしてもさびしい時は、おばあちゃんと楽しかった時のことを思い出すよ。
 そうすれば、さびしいのもどこかへいってしまうと思います。
 おばあちゃん、さようなら。
 いつも優しいおばあちゃんでいてくれてありがとう

(広島県:有木さま)

2006年4月5日水曜日

沖縄県 森根さま



私は、母が余命1ヵ月も無いと宣告された時に、葬儀の値段ばかりを気にしていた。

というのも、友人の父が急死した時に、葬儀屋さんから、葬儀の費用の追加が多くて最初の金額よりも倍近い金額を請求されて大変だった事を聞いたばかりだったからです。そこで、私は父や兄弟に相談して、何社かの見積もりを取り、追加料金のかからない葬儀屋さんで決めました。

その葬儀屋さんと打ち合わせを終えて、1週間程して、母が亡くなり、葬式を行いましたが、予想以上の人が火葬に集まったために、飲み物やお菓子が不足した時に、サービスしてくれたり、色々親切にしてもらって、すごく、良心的で助かりました。

その、葬儀屋さんが私達家族に、葬儀の写真や年表(回忌の書かれたもの)を渡してくれたので、すごく感謝しています。それに、母の一年忌にもお花を届けてくれました。

葬儀を挙げるときは、心遣いが嬉しいそんな葬儀屋さんで、余計な心配をせずにあげれることが本当に、幸せだと感じました。お母さんの葬儀で、私は葬儀の大切さと、周りの方々の心の暖かさを教わる事が出来ました。

(沖縄県:森根さま)

2006年3月29日水曜日

群馬県 江川さま



5歳の11月に亡くなってしまった、上の子(今は小1)の友達Kくん、親の目の前で起きた交通事故でした。やんちゃでいたずらっ子で、だけど憎めないこだったのに、あまりにも早すぎる死に事実が受け入れられませんでした。

祭壇には大好きなニモと一緒にとった遺影、たくさんの風船を飾り、ディズニーランドのアトラクションにいるような夢のような葬儀でした。

本当に夢であって欲しいと誰もがそう思ったに違いありません、お別れの音楽もディズニーで、悲しい曲より一層つらかったです。名前の如く一番輝く星になってみんなをみていてくださいとお別れをしました。

(群馬県:江川さま)

2006年3月22日水曜日

北海道 野田さま



私の父方の祖母は92歳で他界しました。

父が生まれてすぐに祖父が亡くなったので祖母は女でひとつ一人息子を育て上げました。そんな一人息子である私の父も祖母が亡くなる2年前に他界してしまい、私たち孫4人いるのですが、末っ子の私と主人3人で暮らしていました。

気落ちしていた祖母を励まそうと他の兄弟達やひ孫が勢ぞろいして明るく楽しく過ごしていましたが、最後は肺炎により亡くなってしまいました。

お葬式は私たち孫が出しました。祖母は若いときから化粧をしたことがなく、血色も良いほうだったので口紅も塗ったことがありませんでしたが、棺の中の祖母は寝化粧されていて、うっすらと口紅も塗っていました。

棺に入っている祖母と最後のお別れのとき6歳になるひ孫が「大きいおばあちゃんお嫁さんにいくんだね」といいました。

私は胸が熱くなり、今まで祖母は32歳で亡くなった祖父のことを片時も忘れずがんばって生きてきたこれまでの人生を考えて、「おばあちゃんがいなくなるのは寂しいけど天国で幸せになってね。」と心から思いました。

(北海道:野田さま)

2006年3月15日水曜日

奈良県 川島さま



友人Mが救急車で運ばれて、意識不明の重体の知らせを聞いた。今日はエイプリルフールだったけ?とぼんやり思った。だって、元気印で、朝からランニングして、5キロの距離をオバチャリで出勤、昼休みにジムでヒップホップ踊るような奴が、病気だんなんて信じられなかった。

集中治療室で丸刈りでキズだらけの頭。点滴やら、酸素やら、管だらけの身体。なんとか目覚めて欲しい。みんなで見舞いに来たら、喜んで起きる?そんな希望を抱いて、それから、友達に電話しまくった。ものすごい沢山の人が見舞いに来た。イギリスから一番の親友も駆けつけた。

でも、イギリス在住の親友が来てくれるのを待っていたかのように。Mは旅立った。受付やら、連絡係、色んな作業に追われた私は、あまり泣かなかった。泣きまくり、動揺しまくりの友人を慰めて歩いた。あっさりしてる自分に驚いていた。

お見舞いの時も、看護士さんが驚いたが、小さな町の葬儀場に長い列が出来た。友人がまたその友人を連れて、ゴスペル合唱団も参列した。最期の焼香が終わり、ゴスペルの美しいハーモニーが、みんなの悲しみを表現するかのようだ。青い空に美しく、力強い歌声が響いた。

出棺の時が来た。お別れに彼女の顔をなでた。硬く冷たい彼女。そういえば、亡くなってすぐ駆けつけて、抱きついたので、まだ温かくて、柔らかくて、死んだなんて思ってなかったところがあった。はじめて、彼女が死んだ事実を突きつけられた。今まで溜め込んでた涙が一気にあふれて、オイオイ泣きくずれてしまった。

たぶん、その場にいた誰よりも、みっともなかった。号泣で迎えた出棺。曲はもちろんサザンオールスターズ。常識外れの選曲だ。でも彼女の大好きだったサザンの曲で見送ることは家族の方も満場一致だった。

海の日。

めっちゃくっちゃ青い空。

サザンの曲。

これ以上ないくらい、Mらしい最期だった。
 
(奈良県:川島さま)

2006年3月8日水曜日

埼玉県 千葉さま



父の葬儀。

生活保護を受けていた父は「葬儀は市でやってもらい、同居の母親と、娘の私だけ来てほしい」と話していました。遺言状もしっかり書いておくような生真面目さが「うつ」になった原因だと思います。

葬儀は形だけ行われました。ずっと会っていなかった人ばかり、お金のもめごとで別れた人たちです。私は父の言ったとおりに行うのが使命だと思う反面、強がりで言っていたのかもと悩みました。

病院でももちろん、葬儀ではみなが泣きました。でも私は内心ほっとした気持ちで、涙はでませんでした。手紙を御棺に入れ、頬に触り、お別れを言いました。「これでよかったんだよ、ありがとう」と。

みなには反感を買うことになりましたが、最後まで父の姿を見て声を聞いていた私には本心でした。父は苦しんでいました。人の心が信じられなくなっていました。そういう病気でした。

私もどうしていいかわからなかったけれど、みなのように「会わない」ことが解決だとは思えなかった。葬儀は冷たいものだったけれど、私が巻き込まれないようにと幸せを願ってくれた父のことを思うと強くなれた一日でした。

(埼玉県:千葉さま)

2006年3月1日水曜日

東京都 倉橋さま



私の妹の義母が重い病のため住み慣れた佐渡を離れ長男夫婦のいるさいたま市で治療、療養の末、亡くなりました。そのため葬儀は家族と数人の親族による小さなものでした。

あるセレモニー会場を使いましたが、納棺の時のことです。2人の美容師さんのような女性が静かに現れて、故人の髪をゆっくりととき、何かを話しかけているかのように整えはじめました。

とてもいとおしいように、故人がまるで生きているかのようです。産毛を剃り、紅をさす、そのあまりにも優しい手つきに見ている誰もが感動し涙をこぼしました。

その方々はお仕事かもしれませんが、私たちは悲しい納棺の場で心のこもった故人への対応ぶりを見て「おばあちゃん、よかったね」と心が熱くなる思いでした。

(東京都:倉橋さま)

2006年2月22日水曜日

福岡県 瓜生さま



45歳で亡くなった従兄の葬儀。

小学生の時にお父さんを亡くし、とても仲の良い1歳下の弟とお母さん。遺族代表の挨拶をその弟がしました。

「兄は亡くなる前に皆さんへのメッセージを私に託しました。『皆さん、悲しまないで下さい。春は桜の花に、夏はセミに、秋は紅葉に、冬は雪になって皆さんの傍にいつもいます。』」この様なお話でした。

参列者のほとんどの方からすすり泣きが聞こえてきました。私も涙があふれて・・・。

亡くなった人の気持ちがストレートに伝わってきた葬儀でした。

(福岡県:瓜生さま)

2006年2月13日月曜日

東京都 保延さま



昨年(平成16年)に弟が膵臓癌で亡くなりました。その葬儀の準備の際、私は葬儀社と喧嘩寸前になり葬儀社というものは悲しみで思考能力が低下している遺族相手に強欲で迫ってくるものなのだと思いました。

生花の祭壇を希望した所「あれは高くつきますよ普通の祭壇の方がいいですよ」と受け付けようとしないのです。「高いっていくらなんですか」と聞いても具体的な金額をなかなか口にせずなんとか使いまわしのきく白木の祭壇を推し進めるのです。

「若くして亡くなったので華やかに送りたい」と交渉する事数時間。やっと生花祭壇の見本写真を見せました。一時が万事その状態。

見積を出してくれと言えば「いくら出せますか?その金額でやります」と返事。ふざけるな!と言いたい所をこらえ「とにかく細かい見積を出して下さい」通夜振舞のお料理も一方的に決めるので相手のペースで話をさせないように必死でした。

おかげで悲しんでいる暇もなく「この葬儀屋のおっさんに負けてはいけない」と父と伯父、従姉妹の4人で希望通りの葬儀を行いました。

おかげ様でいろいろ勉強になりこれから何度か経験するであろう葬儀を出す側の心得を学びました。

(東京都:保延さま)

2006年2月8日水曜日

北海道 宮下さま



一昨年、私の祖父(私の母の父)が亡くなった時の話です。

祖父はとても優しくて、子供にも孫にもとても親しまれていました。その祖父が亡くなり、出棺を迎えた時、私のおじさん(母の兄)が、北島三郎の「兄弟船」という歌をCDで流し始めました。

この歌は、祖父がとても好きで、いつも口ずさんでいる歌でした。祖父が亡くなったことはとても悲しかったですが、出棺の時は皆笑顔で、あの世へ送り出すことができました。

その計らいをしたおじさんには今でも感謝と尊敬の気持ちでいます。

(北海道:宮下さま)

2006年2月1日水曜日

神奈川県 山下さま



長年病気で苦しみ、今年の4月に他界した妹の葬儀です。

家族思いのとても優しい子でした。ずっと苦しんでいたのでもうこれで苦しまなくていいんだから、みんなで見送ろうと私たち家族なりの葬儀を行いました。

参列者は私たち家族だけ。喪服も着ませんでした。豪華な花輪もありません。そんな事を妹が喜ぶとは思えなかったのです。あの子が好きだったお花をたくさん買い、大事にしていた物を棺に入れ、涙を流しながら「今までありがとう。」と声をかけました。

母は泣きながらずっと妹の顔を触り、「いつも優しくしてくれてありがとう」としきりに言っていました。兄はただ泣いているだけ。私は妹のこの世での最期の顔をずっと眺め、顔を触り、手を触り、足を触り、妹の存在を一生懸命感じていました。

そこにいるのは確かに妹なんだけど、間違いないんだけど、頭がついて行けず、泣きながらも「この人は誰なんだろう」と言う不思議な感覚にも見舞われました。骨になった妹を見ればなおさらそう思います。

あまりにも早すぎる死。納得のできない死。生きるとは、死ぬとは何だろうと深く考えさせられました。人に話せば「何なのそのお葬式?」と思われるでしょう。でも私は、私たちらしい送り方ができたと思っています。

妹よ、どうぞ安らかに。お姉ちゃんもいつかそっちへ行くから、それまで待っていてね。見守っていてね。

(神奈川県:山下さま)

2006年1月24日火曜日

東京都 高田さま



小さい頃、同じ社宅に住んでいたKさん夫婦には子供ができなかった。おばちゃんのほうが若い頃に子宮の病気を患ったことが原因だという。

私と兄はほとんど毎日のようにKさんの家に遊びに行っていた。実母は私たちとは歳の離れた弟の世話におわれ、実父は単身赴任中だったので、かわりにKさん夫婦が、色んなお菓子や料理を作ってくれ、遊びに連れて行ってくれた。

Kさん夫婦が大好きだった。Kさん達がママとパパだったら良かったのになあ、子供心に本気でそう思っていた。誕生日やクリスマスにはプレゼントを忘れずにくれた。旅行に行ってきたからと珍しいお土産を必ず買ってきてくれた。本気で叱られることもあったけど、Kさん夫婦が大好きだった。

兄の小学校入学に合わせて私達一家は社宅を出て父方の祖父母と同居生活となった。Kさん夫婦も偶然にも犬を飼える庭が欲しいと一軒家を私たちのそばに購入していた。よってその後も回数は減ったものの、Kさん夫婦との行き来は途絶えなかった。

25歳を迎えた私は学生の頃から交際していた男と結婚することとなった。もちろんKさん夫婦は親族席に着いてもらった。結婚して3年、私達夫婦に双子の娘たちが誕生した。想像を絶する忙しい育児だった。Kさん夫婦は自分たちの孫の面倒を見るかのように娘たちのことを愛でてくれた。

体力的にも精神的にも疲労がピークに達していた私は突然地獄に落とされた。旦那の浮気・借金発覚。それを機に繰り返される暴力。精神が持たなかった。激減する体重、狂っていく精神、鬱病・パニック障害・自傷行為・拒食症ありとあらゆる精神病名が診断された。

変貌していく私をみて心配するKさん夫婦に、私はなぜか本当の事が言えなかった。自分の地獄の生活しか見えてなかった。育児すらまともにできなかった。自分の人生を呪っていた。ただただ死への憧れを抱く日々だった。その頃の子供の顔など覚えていないほど私の目は何も見ていなかった。

その日はある日突然来た。Kさんおばちゃんが末期ガンだという。余命1ヶ月。すでに意識は朦朧としており、声を発することもほとんどできないという。急いで病院に駆けつけた。自分の家を出てから病院までどのようにして行ったかほとんど覚えていない。ただただ人目もはばからず泣きながら、病んでいる精神では乗ることができなかったはずの電車にのり面会時間のことなどまったく考えることなく病室に飛び込んだ。

ベットの上には黄疸と薬の副作用で変わり果てた姿のおばちゃんが横たわっていた。「おばちゃん、おばちゃん、何してるのよ。寝てる場合じゃないよ。起きて、ねえ。映画行こうよ。ケーキ食べに行こうよ。」おばちゃんに抱きついて叫んだ。「社宅に帰ろうよ。」その時おばちゃんがうっすらと目を開けた。

「Mちゃん?何してるの。子供たちは?母親でしょ。子供を放っておいてこんなところで何してるの。お家に帰りなさい。子供たちが寂しがっているじゃない。」凜とした口調で、泣きじゃくる私にを叱り飛ばした。その数秒後にはよくわからない発声を繰り返しそしてまたうつらうつらと意識が途絶えはじめていた。

おじちゃんに廊下に呼ばれた。ここ数日間まともな言葉を発することはなかったという。面会者の識別などもってのほかだと。そしておじちゃんは「おじちゃんさ。一人になっちゃうんだ。」といって泣いた。泣きじゃくっていた。「一人は寂しいな」と。

時間の許す限り、病院へ通った。そして反応がなくとも30年間のKさん夫婦との思い出をおばちゃんに話していた。「Mちゃんの歌う黒猫のタンゴ大好きよ。」幼い頃そういわれたことを思い出し、我が子に子守唄などほとんど歌ったことのない私は、必死に歌詞を思い出しながら黒猫のタンゴをおばちゃんに歌った。

1ヶ月も経たないある日、おばちゃんが亡くなったという連絡を受けた。享年56歳。式の間中、涙が止まることは一瞬たりともなかった。それでも黒渕で囲まれたおばちゃんの写真から目を離したのは献花の時だけだった。

「Mちゃん。しっかりしなさい。母親でしょ。子供を愛しているのでしょう。顔をあげなさい。ゆっくりでいい。あせらずに。自分の足で立ち上がりなさい。子供たちの手をしっかり握って生きなさい。生きなさい。」写真の中のおばちゃんが私の目をみてそう語りかけてくる。

双子の娘たちは5歳になった。おばちゃん、私、生きるね。どのくらいの月日が掛かるかわからない。でもね。生きて闇ではなく光の方へ歩いてみる。二人の手をしっかりと握り締めて。

おばちゃん、ありがとう。

(東京都:高田さま)