2006年1月24日火曜日

東京都 高田さま



小さい頃、同じ社宅に住んでいたKさん夫婦には子供ができなかった。おばちゃんのほうが若い頃に子宮の病気を患ったことが原因だという。

私と兄はほとんど毎日のようにKさんの家に遊びに行っていた。実母は私たちとは歳の離れた弟の世話におわれ、実父は単身赴任中だったので、かわりにKさん夫婦が、色んなお菓子や料理を作ってくれ、遊びに連れて行ってくれた。

Kさん夫婦が大好きだった。Kさん達がママとパパだったら良かったのになあ、子供心に本気でそう思っていた。誕生日やクリスマスにはプレゼントを忘れずにくれた。旅行に行ってきたからと珍しいお土産を必ず買ってきてくれた。本気で叱られることもあったけど、Kさん夫婦が大好きだった。

兄の小学校入学に合わせて私達一家は社宅を出て父方の祖父母と同居生活となった。Kさん夫婦も偶然にも犬を飼える庭が欲しいと一軒家を私たちのそばに購入していた。よってその後も回数は減ったものの、Kさん夫婦との行き来は途絶えなかった。

25歳を迎えた私は学生の頃から交際していた男と結婚することとなった。もちろんKさん夫婦は親族席に着いてもらった。結婚して3年、私達夫婦に双子の娘たちが誕生した。想像を絶する忙しい育児だった。Kさん夫婦は自分たちの孫の面倒を見るかのように娘たちのことを愛でてくれた。

体力的にも精神的にも疲労がピークに達していた私は突然地獄に落とされた。旦那の浮気・借金発覚。それを機に繰り返される暴力。精神が持たなかった。激減する体重、狂っていく精神、鬱病・パニック障害・自傷行為・拒食症ありとあらゆる精神病名が診断された。

変貌していく私をみて心配するKさん夫婦に、私はなぜか本当の事が言えなかった。自分の地獄の生活しか見えてなかった。育児すらまともにできなかった。自分の人生を呪っていた。ただただ死への憧れを抱く日々だった。その頃の子供の顔など覚えていないほど私の目は何も見ていなかった。

その日はある日突然来た。Kさんおばちゃんが末期ガンだという。余命1ヶ月。すでに意識は朦朧としており、声を発することもほとんどできないという。急いで病院に駆けつけた。自分の家を出てから病院までどのようにして行ったかほとんど覚えていない。ただただ人目もはばからず泣きながら、病んでいる精神では乗ることができなかったはずの電車にのり面会時間のことなどまったく考えることなく病室に飛び込んだ。

ベットの上には黄疸と薬の副作用で変わり果てた姿のおばちゃんが横たわっていた。「おばちゃん、おばちゃん、何してるのよ。寝てる場合じゃないよ。起きて、ねえ。映画行こうよ。ケーキ食べに行こうよ。」おばちゃんに抱きついて叫んだ。「社宅に帰ろうよ。」その時おばちゃんがうっすらと目を開けた。

「Mちゃん?何してるの。子供たちは?母親でしょ。子供を放っておいてこんなところで何してるの。お家に帰りなさい。子供たちが寂しがっているじゃない。」凜とした口調で、泣きじゃくる私にを叱り飛ばした。その数秒後にはよくわからない発声を繰り返しそしてまたうつらうつらと意識が途絶えはじめていた。

おじちゃんに廊下に呼ばれた。ここ数日間まともな言葉を発することはなかったという。面会者の識別などもってのほかだと。そしておじちゃんは「おじちゃんさ。一人になっちゃうんだ。」といって泣いた。泣きじゃくっていた。「一人は寂しいな」と。

時間の許す限り、病院へ通った。そして反応がなくとも30年間のKさん夫婦との思い出をおばちゃんに話していた。「Mちゃんの歌う黒猫のタンゴ大好きよ。」幼い頃そういわれたことを思い出し、我が子に子守唄などほとんど歌ったことのない私は、必死に歌詞を思い出しながら黒猫のタンゴをおばちゃんに歌った。

1ヶ月も経たないある日、おばちゃんが亡くなったという連絡を受けた。享年56歳。式の間中、涙が止まることは一瞬たりともなかった。それでも黒渕で囲まれたおばちゃんの写真から目を離したのは献花の時だけだった。

「Mちゃん。しっかりしなさい。母親でしょ。子供を愛しているのでしょう。顔をあげなさい。ゆっくりでいい。あせらずに。自分の足で立ち上がりなさい。子供たちの手をしっかり握って生きなさい。生きなさい。」写真の中のおばちゃんが私の目をみてそう語りかけてくる。

双子の娘たちは5歳になった。おばちゃん、私、生きるね。どのくらいの月日が掛かるかわからない。でもね。生きて闇ではなく光の方へ歩いてみる。二人の手をしっかりと握り締めて。

おばちゃん、ありがとう。

(東京都:高田さま)