2006年3月29日水曜日

群馬県 江川さま



5歳の11月に亡くなってしまった、上の子(今は小1)の友達Kくん、親の目の前で起きた交通事故でした。やんちゃでいたずらっ子で、だけど憎めないこだったのに、あまりにも早すぎる死に事実が受け入れられませんでした。

祭壇には大好きなニモと一緒にとった遺影、たくさんの風船を飾り、ディズニーランドのアトラクションにいるような夢のような葬儀でした。

本当に夢であって欲しいと誰もがそう思ったに違いありません、お別れの音楽もディズニーで、悲しい曲より一層つらかったです。名前の如く一番輝く星になってみんなをみていてくださいとお別れをしました。

(群馬県:江川さま)

2006年3月22日水曜日

北海道 野田さま



私の父方の祖母は92歳で他界しました。

父が生まれてすぐに祖父が亡くなったので祖母は女でひとつ一人息子を育て上げました。そんな一人息子である私の父も祖母が亡くなる2年前に他界してしまい、私たち孫4人いるのですが、末っ子の私と主人3人で暮らしていました。

気落ちしていた祖母を励まそうと他の兄弟達やひ孫が勢ぞろいして明るく楽しく過ごしていましたが、最後は肺炎により亡くなってしまいました。

お葬式は私たち孫が出しました。祖母は若いときから化粧をしたことがなく、血色も良いほうだったので口紅も塗ったことがありませんでしたが、棺の中の祖母は寝化粧されていて、うっすらと口紅も塗っていました。

棺に入っている祖母と最後のお別れのとき6歳になるひ孫が「大きいおばあちゃんお嫁さんにいくんだね」といいました。

私は胸が熱くなり、今まで祖母は32歳で亡くなった祖父のことを片時も忘れずがんばって生きてきたこれまでの人生を考えて、「おばあちゃんがいなくなるのは寂しいけど天国で幸せになってね。」と心から思いました。

(北海道:野田さま)

2006年3月15日水曜日

奈良県 川島さま



友人Mが救急車で運ばれて、意識不明の重体の知らせを聞いた。今日はエイプリルフールだったけ?とぼんやり思った。だって、元気印で、朝からランニングして、5キロの距離をオバチャリで出勤、昼休みにジムでヒップホップ踊るような奴が、病気だんなんて信じられなかった。

集中治療室で丸刈りでキズだらけの頭。点滴やら、酸素やら、管だらけの身体。なんとか目覚めて欲しい。みんなで見舞いに来たら、喜んで起きる?そんな希望を抱いて、それから、友達に電話しまくった。ものすごい沢山の人が見舞いに来た。イギリスから一番の親友も駆けつけた。

でも、イギリス在住の親友が来てくれるのを待っていたかのように。Mは旅立った。受付やら、連絡係、色んな作業に追われた私は、あまり泣かなかった。泣きまくり、動揺しまくりの友人を慰めて歩いた。あっさりしてる自分に驚いていた。

お見舞いの時も、看護士さんが驚いたが、小さな町の葬儀場に長い列が出来た。友人がまたその友人を連れて、ゴスペル合唱団も参列した。最期の焼香が終わり、ゴスペルの美しいハーモニーが、みんなの悲しみを表現するかのようだ。青い空に美しく、力強い歌声が響いた。

出棺の時が来た。お別れに彼女の顔をなでた。硬く冷たい彼女。そういえば、亡くなってすぐ駆けつけて、抱きついたので、まだ温かくて、柔らかくて、死んだなんて思ってなかったところがあった。はじめて、彼女が死んだ事実を突きつけられた。今まで溜め込んでた涙が一気にあふれて、オイオイ泣きくずれてしまった。

たぶん、その場にいた誰よりも、みっともなかった。号泣で迎えた出棺。曲はもちろんサザンオールスターズ。常識外れの選曲だ。でも彼女の大好きだったサザンの曲で見送ることは家族の方も満場一致だった。

海の日。

めっちゃくっちゃ青い空。

サザンの曲。

これ以上ないくらい、Mらしい最期だった。
 
(奈良県:川島さま)

2006年3月8日水曜日

埼玉県 千葉さま



父の葬儀。

生活保護を受けていた父は「葬儀は市でやってもらい、同居の母親と、娘の私だけ来てほしい」と話していました。遺言状もしっかり書いておくような生真面目さが「うつ」になった原因だと思います。

葬儀は形だけ行われました。ずっと会っていなかった人ばかり、お金のもめごとで別れた人たちです。私は父の言ったとおりに行うのが使命だと思う反面、強がりで言っていたのかもと悩みました。

病院でももちろん、葬儀ではみなが泣きました。でも私は内心ほっとした気持ちで、涙はでませんでした。手紙を御棺に入れ、頬に触り、お別れを言いました。「これでよかったんだよ、ありがとう」と。

みなには反感を買うことになりましたが、最後まで父の姿を見て声を聞いていた私には本心でした。父は苦しんでいました。人の心が信じられなくなっていました。そういう病気でした。

私もどうしていいかわからなかったけれど、みなのように「会わない」ことが解決だとは思えなかった。葬儀は冷たいものだったけれど、私が巻き込まれないようにと幸せを願ってくれた父のことを思うと強くなれた一日でした。

(埼玉県:千葉さま)

2006年3月1日水曜日

東京都 倉橋さま



私の妹の義母が重い病のため住み慣れた佐渡を離れ長男夫婦のいるさいたま市で治療、療養の末、亡くなりました。そのため葬儀は家族と数人の親族による小さなものでした。

あるセレモニー会場を使いましたが、納棺の時のことです。2人の美容師さんのような女性が静かに現れて、故人の髪をゆっくりととき、何かを話しかけているかのように整えはじめました。

とてもいとおしいように、故人がまるで生きているかのようです。産毛を剃り、紅をさす、そのあまりにも優しい手つきに見ている誰もが感動し涙をこぼしました。

その方々はお仕事かもしれませんが、私たちは悲しい納棺の場で心のこもった故人への対応ぶりを見て「おばあちゃん、よかったね」と心が熱くなる思いでした。

(東京都:倉橋さま)