2010年2月25日木曜日

ヒロシ さま



「お母さんの様態が今朝方より悪化しているので、すぐ病院に来れますか?」

11月初旬の日曜の早朝、食事をしている最中に、母が入院している病院の主治医より連絡が入り、すぐさま病院へ車を走らせました。
前日の夜遅く、私は母の見舞いのために札幌より福岡の実家に帰って来ていました。

昨年の4月末、体調不良を訴えていた母は病院での検査の結果、癌と宣告されました。
奇しくも以前一緒に住んでいた母親(私の祖母)と同じ75歳の年齢での癌の発病に「お母さんと同じ歳に同じ病気になっちゃったわ。でも、お母さんもそれから5年頑張ったから私も頑張らなきゃね」と母は笑顔で話していましたが、動揺している私達子供達以上に一番動揺していていたのは母だったと思います。
8年程前、夫(私の父)を亡くした後、母は気晴らしにダンスを始めました。もともと運動が得意で、社交的な母はすっかり夢中になってしまい、入院の直前まで大勢の仲間と全国各地の大会に参加するほど元気にしていました。
そんな元気一杯だった母なので、何とか乗り切って、再度軽やかなステップを踏んでくれるものと信じて疑いませんでした。

私が病院に着くと、母はすでに意識が朦朧となった状態でした。追って近くに住む妹も駆けつけました。その後状態は少し落ち着いたものの、昼を回る頃には再び悪化し始め、午後2時過ぎに意識が戻ることもなく、あっけなく息を引き取ってしまいました。
午前中、小康状態になったものの目を閉じたまま、こちら側に顔を向け苦しそうに息をしている母の手を握り「僕だよ」と声を掛けると、何と母は一瞬両目を見開きました。私が見舞いに来たのに気付いてくれたのでしょうか?きっと気付いてくれたのだと私は信じたい。

その後は、通夜、葬儀と母の死の悲しみに暮れる間もなく、慌ただしい日々が過ぎました。
祭壇は、母は花が好きだったため、葬儀担当の方のアドバイスも頂き、花で埋め尽くされた祭壇にして頂きました。「○○ちゃんらしい」と参列頂いた方からも、お言葉を多く頂きました。
予想外だったのは、母の友人が大勢参列頂いたため式場に入りきれなかった事です。元々友人が多いことは私も承知していましたが、それに加えてダンス仲間の方も大勢参列頂き収拾がつかなくなりそうでしたが、会場担当の方の臨機応変な対応により何とか対応できたかと思っております。
慣れない大変な段取りでしたが、葬儀関係者、親戚の方々また妻の支えによって無事執り行う事が出来たかなと思っております。
母の死によって、母がどれだけ良き友人に囲まれ、また支えられていたか、また慕われていたかを教えられました。
私達子供達にも、母親として大きな愛でいつも優しく見守ってくれたことに心から感謝しています。
生前には口に出して言えませんでしたがこのように母に伝えたいと思います。

「お袋の息子であったこと本当にありがとう。感謝しています。お袋が僕の母であったことを誇りに思います。後のことは心配せずに安らかに眠って下さい。」

2010年1月19日火曜日

三人のおじさん



三人のおじさん

知人の結婚式に呼んでいただきました。

宴もたけなわ、という頃に電報のお披露目がありました。
電報といえば、議員さんだの、会社の偉い人だの、有名人だの、といった本人よりもその親御さんの付き合いなどのものが案外多かったりしますが
今回はまさしくその親御さんの付き合いの方からの、電報ではなく手書きのお手紙の披露がありました。

自称「ゴルフ大好き三人組」のおじさんからの心温まる手紙でした。
赤ちゃんの時から見つめ、案じ、かわいがり続けた、まるで新婦のお父さんがもう3人居るかのような、思いのこもったお手紙でした。

そんな新婦さんは、きっとご主人のお友達を大切にできる人で、そんなご主人もまた奥さんのお友達を大事にすることになるのだろうと
人の出入りの絶えない、明るい家庭が目に浮かんで、とても幸せな気持ちになりました。