2006年8月2日水曜日

神奈川県 カトウさま



葬儀後の火葬場にて待たされている間、お菓子と枝豆とお茶が出されました。
なんでこんな形の悪い枝豆を?と思っていたら喪主が

「枝豆食べてよ。今朝取って来たんだよ。あいつがいないからサ、俺が茹でたんだよ。こんなん(菓子)ばかりじゃ寂しいだろ?
あいつがいればもっと色々振る舞えたのに、悪いね。」

と言われ、胸が締め付けられる思いでした。

葬儀最後の棺桶を閉める時になかなか閉められず、
しばらくしてから大きな声で
「さよなら!」と言っていた声が、今でも耳に残っています。

(神奈川県:カトウさま)

2006年7月26日水曜日

柳本さま



「いい人に限って早く逝く」
ガンで急逝した伯父の死を惜しみ、父が呟いた言葉です。

伯父は笑顔の似合う自分に厳しく人に優しい、誠実で
働き者な人でした。
とても苦しい闘病生活を送っていたであろうに、
兄弟姉妹には心配させまいと、ベッドの中から手紙を書いて
コピーしたものを送ってきました。

葬式の写真は慣例に従った黒縁取りの陰気なものではなく、
いつもの明るい笑顔のカラーで、俳優のようないいお顔
の写真を使っていたのが印象的でした。
バックミュージックは生前に趣味として活躍されていた
合唱のものでした。

介護者であった伯母やその娘はガリガリにやせ衰えていながらも、
伯母は葬儀の途中、精根尽き果てて倒れましたが
精進落としの際も気丈に参加され、
とくに 娘さんは終始笑顔を絶やさず、涙を見せることなく
参列者たちを気遣っておられたのが印象的でした。

(柳本さま)

2006年7月12日水曜日

ペンネーム Y子さま



20年以上前ですが、私がまだ学生の頃、大好きだった祖母が他界しました。

12人もいる孫の中で、一番わたしのことを可愛がってくれていました。その様子は、他の従姉妹や叔母たちも焼きもちを焼くほどでした。

祖母が他界したのは夏休みの1日目の早朝で、夏休みに入ったら直ぐに行こうと思っていた日に亡くなり、母が「学校もあるし病院に来なくていい」と言って行かせてもらえず、すごく残念で今も悔やまれます。

その葬儀の時不謹慎にも笑ってしまったのです。
子供の私にとって 葬儀は退屈で眠いものです。葬儀も終わりかけた頃、そろそろ足の痺れを何とかしないと、とスイッチONにした時、従弟が私にものすごく面白い顔をひつこく向けてきて、どうしても我慢できませんでした。
で、かなり笑ってしまい、で、ものすごく母に叱られました。

私にとって忘れられない葬儀になりました。他界してからも祖母は私のところに数回来てくれたりして、
「生きていた時も亡くなってからもY子ばかり~」
と叔母には今だに焼きもちを焼かれています。

(ペンネーム:Y子さま)

2006年6月14日水曜日

兵庫県 前田さま



もう10年以上前、「おばちゃん」が亡くなりました。
おばちゃんは母の友人でした。

私には初めてのお通夜、お葬式。
親族ではないけれど、お骨も拾わせてもらいました。

おばちゃんが亡くなって悲しいけれど、、
それ以上に、今まで知らなかった、闘病中の話、大人の付き合いのこと、
いろんなことがわかってきて、とても悲しくなりました。

あれから・・

家族ぐるみの付き合いも遠ざかりました。
お墓参りもできません。
お家に行くこともなくなりました。

いろんなことが変わっていったのです。

もしかしたら、変わるのは仕方のないことだったのかもしれません。

(でも、あの頃の私にはわかりませんでした。)

今では、おばちゃんは、亡くなってからも私にたくさんのことを教えてくれてるのだ、と思ってます。

(兵庫県:前田さま)

2006年5月30日火曜日

広島県 中根さま



私が結婚して、会社に来たのが昭和47年6月(25歳)でした。
社長さん奥さんのご好意で ささやかでしたが、結婚式をして、新婚旅行に行かせてもらいました。
それから、私達夫婦は一緒に住むことになりました。
夜学に通っていた工場の女の子達も一緒の生活でした。

当時、今はありませんが、工場で奥さんも一緒に作業服を縫いながら女の子たちが夜学から帰ってくるのを待ってお世話をしていましたね
 仕事をしているからと私たち夫婦の食事も一緒に作り、子どものk君の世話をし、女の子の面倒も見ながら仕事にも携わっていて、ろくに夫婦の時間などありませんでしたね。

それでもいつもにこにこして我々に接していただきました。
また私たちに子供が出来てからは、その面倒も見ていただきました。
同居生活でしたので、本当に気の休まることはなかったと思います。

私たちの子供も一人、二人、三人となっても同じようにお世話をしていただきました。
K君も同じくらいの歳でしたから、手のかかる間中、子供の世話をしていただいた事になります。
我が子だけでも大変なことですが、他人の子まで本当に尽くしていただきました。

奥さんに作って貰った素うどんは格別の味がして、今でもあれが食べたいと思うことが有ります。
また白菜の漬物が絶品でいくらでも食べられる味でした。私の友達のM君も二、三度頂いたことがあり、彼もあの味が忘れられないと、今でも言います。

あれから30年、生活面においても 昔とは違ったそれぞれの居場所が出来、生活も安定して環境は一変しました。
奥さんも昔、苦労した分これからはゆっくりと余生を楽しむことが出来ると感じられたことでしょう。
しかし、神のいたずらでしょうか、その時間は余りにも短かったように思います。

体の弱かった社長を初めとして、多くの回りの人々の面倒を見てこられました。
きっとそんな奥さんの姿勢が会社を発展に導いたに違いありません。

今は もう恩返しをすることは出来ませんが この思いを少しでも社会にお返しすることが出来たらと思います。

(広島県:中根さま)

2006年4月12日水曜日

広島県 有木さま



いつもやさしかった義母を見送った子供たちの手紙です。
 
おばあちゃんへ
 おばあちゃん、病院でよくがんばったね。
 ぼくたち、わたしたちががんばるから、安心してください。
 おばあちゃんがいないのはさびしいけれど、
 ぼくたち、わたしたちががんばる から、天国で見守っていてね。
  
 どうしてもさびしい時は、おばあちゃんと楽しかった時のことを思い出すよ。
 そうすれば、さびしいのもどこかへいってしまうと思います。
 おばあちゃん、さようなら。
 いつも優しいおばあちゃんでいてくれてありがとう

(広島県:有木さま)

2006年4月5日水曜日

沖縄県 森根さま



私は、母が余命1ヵ月も無いと宣告された時に、葬儀の値段ばかりを気にしていた。

というのも、友人の父が急死した時に、葬儀屋さんから、葬儀の費用の追加が多くて最初の金額よりも倍近い金額を請求されて大変だった事を聞いたばかりだったからです。そこで、私は父や兄弟に相談して、何社かの見積もりを取り、追加料金のかからない葬儀屋さんで決めました。

その葬儀屋さんと打ち合わせを終えて、1週間程して、母が亡くなり、葬式を行いましたが、予想以上の人が火葬に集まったために、飲み物やお菓子が不足した時に、サービスしてくれたり、色々親切にしてもらって、すごく、良心的で助かりました。

その、葬儀屋さんが私達家族に、葬儀の写真や年表(回忌の書かれたもの)を渡してくれたので、すごく感謝しています。それに、母の一年忌にもお花を届けてくれました。

葬儀を挙げるときは、心遣いが嬉しいそんな葬儀屋さんで、余計な心配をせずにあげれることが本当に、幸せだと感じました。お母さんの葬儀で、私は葬儀の大切さと、周りの方々の心の暖かさを教わる事が出来ました。

(沖縄県:森根さま)