2009年11月25日水曜日

みゆき さま



七五三

先日テレビでサザエさんの実写版を見ていて、自分の七五三のことを思い出しました。
私も姉のお下がりの着物で、ワカメちゃんのように新しい着物がうらやましくて、うらやましくて、たまりませんでした。

末っ子だった私はなにかにつけておさがりばかりでしたから、よくその事ですねていたものです。
母が着物の柄の説明とか、この着物はどんなに上等なのか、とか、このかんざしは珍しいものなんだとか、本当かどうかはわかりませんが(笑)一生懸命してくれたことを懐かしく思い出しています。

私の娘も、私や姉、いとこ達が身につけた帯とかんざし、それにぞうりを履いて、チリンチリンと鈴を鳴らしながら歩きました。

やっぱり私と同じように、重いだの、足が痛いだの言いながら・・・・・
また娘の娘が、身につけてくれる日がくるのでしょうか。

2009年10月20日火曜日

岡崎市 オグチさま



敬老の日
 
幼稚園では毎年敬老参観があります。
子どもたちは、かわいい手でプレゼントを作っては、おじいちゃんおばあちゃんに手渡します。

今年はそれぞれの子どもが思い思いの絵を描いた、かわいいエプロンでした。
最近では子どもが書いた絵がそのままプリントされて、洗っても落ちないんですね。

我が家はおばあちゃんが両方ともいなくなってしまったので、写真の前にお供えして、それから私が代わりにもらいました。

おばあちゃんたちの分まで、大事にしたいと思います。

2009年9月24日木曜日

岡山県 さんさるさま



恩師が亡くなったとの知らせから約1ヵ月後、学生時代の友人達と先生の研究室を訪ねました。

天井まであった本や書類は無くなって、すこし雰囲気が違って見えました。私たちはそれぞれ、当時のお決まりの場所に腰掛けて、先生の思い出話を始めました。ひとしきり話し、友人の一人が

「先生がいた時みたいだね。」

とつぶやいた時、みんなの視線が先生の机に向かいました。いつもそこから私たちの話に耳を傾けてくれていた先生が、本当にいるかのようでした。

葬儀には参列できなかった私たちですが、自分たちなりのお別れが出来たように思いました。

2009年9月5日土曜日

岡山県 ナカギリさま



初盆

 父の初盆でした。
 葬儀会社の女性の方がお花を持ってわざわざ来てくださってびっくりしました。

 「お盆休みにすみません」
 という私に

 「私たちには盆休みはありませんから、お気になさらないで下さい。ちゃ~んと別の日にお休みをいただいてますから!」

 ちょっと茶目っ気のある笑顔でそう言ってくださる彼女は、まだ30歳にならない若い方。

 こちらまで自然と笑みがこぼれます。
 
 父は彼女と直接は話していませんけれど(当たり前ですね!)
 きっと、通夜の時から好ましく頼もしく眺めていたに違いありません。
 
 父が繋いでくれたこのご縁に感謝しながら、手を合わせました。

2009年7月21日火曜日

大阪府 マユミさま



大阪でヘアメイクの仕事をしています。

毎週末は結婚式のお仕事が多いのですが、先日は仲のいい友達が、旦那様の実家で結婚式を挙げるということで初めて地方での結婚式の仕事をしてきました。

式場は全国あちこちにあるゲストハウスでしたから、今流行のものがすべて揃っていて、どこもそんなに変わらないんだ、なんて思っていました。

でも、最後にとっても驚いたことがあったのです。

夜もすっかりふけて、お客様が皆さんお帰りになって、新郎新婦さんも普段のお洋服に戻って帰られるときのことです。

昼間は純白のドレスで下りた階段にパッと明かりが灯り、新郎新婦のお名前の横断幕が用意されていてスタッフ全員がずらりと並んで、

『本日はまことにおめでとうございました!ここからがまさに本当の第一歩です。どうぞお二人力を合わせて頑張ってください!』

と、拍手の中、お二人をお見送りされたのです。


プランナーさんや支配人だけでなく、シェフもアシスタントの人も、ホント全員でした。
式が終われば、早く帰りたいのが心情なのは私にもよくわかるだけに、ビックリしました。
なんだかゾクゾクっとしてしまいました。

もちろん二人も驚きと共に大感激していて、準備段階のいろんな苦労や、不満などもいっぺんに吹き飛んだと話していました。

私自身も心地よい疲れと感動を持って、新幹線で帰りました。

2009年6月19日金曜日

京都府 キシさま




5月の始めに母を亡くしました。75歳でした。

現代の女性の平均寿命から考えても、もう少し長生きしてもらいたかったなと思います。母は肺癌を患い、手術も受け一度は快方の兆しもあったのですが、昨年秋に転移がみつかりました。高齢ということもあり、投薬による治療を担当医より勧められましたが、母は治療せずに緩和医療を選びました。

家族も皆、母が薬の副作用などで苦しい思いをするよりは、残された時をゆったりと楽に過ごしてくれるほうがいいと思い緩和医療に賛成しました。最期はホスピスのベッドの上でした。家族全員に看とられ眠るように逝くことができました。

私の仕事柄、葬儀についての知識もある程度わかっておりましたが、実際のところ自分の母の段取りをするとなるとなかなか手際良くとはいきませんでした。葬儀社に出入りしておられます花屋時代の先輩の勧めと力添えのおかげで、母の葬儀の祭壇の花を生けることができました。

もちろん今までにも仕事で葬儀の祭壇やお別れ会の花を生けてきました。しかし内心、自分の母となると果たしてちゃんと生けられるかなと不安な気持ちを持ちながら生け始めました。生前は全くと言っていいほど母の前で花を生けたことがありませんでした。

生けながら母への思いや数々の思い出が頭をよぎりながらも、花に気持ちを集中して、無事母の好きであった花を飾ることができました。葬儀に参列くださいました皆様にも母らしい花祭壇だと言って頂き、また自分としてもデザインや装飾という観点ではなく、花の世界に身をおいて経験を積み重ねてきた「私の花」が生けられたと思います。

技術の成果と言うより自分の自然な姿で、母の前でいい格好するのではなく「あなたの息子はこんなふうに成長し、花に携わる仕事をしてきました。幸いな事に自分の好きな仕事を続けてこられました。」と、そんな今日の花を母に見てもらえたかなと思います。

ただ祭壇の花に囲まれた母の遺影を見ていると、自分の親不孝に情けなくなりました。長く好きな花の仕事を続けてこられたのは、まわりの皆様に支えて頂いているおかげです。いつも感謝の気持ちを持って仕事をする事は、母から教えられました。

私も重々その気持ちを大切に思ってまいりました。でも実に情けない事に、その教えを受けた母への感謝は忘れていたのでした。家族の甘えからか、口うるさい親だとばかり思う馬鹿息子だったようです。今となってはもう遅すぎるのですが、ほんとうに母への感謝の気持ちでいっぱいです。

 
 
生前、母からの言葉でいつも私の胸にあるのは

  「花を生けるのが、あなたの仕事」。

 ある時、落ち込んでいる私にかけてくれた言葉です。
 とても大切にしています。

2009年5月20日水曜日

Kさま



本物のハグ


「元気でね」。
「うん、色々ありがとう」。

次の日は、1年数ヶ月過したこの町ともお別れだ。
10年以上、ハグのある文化の中で過ごした友人は、当たり前のように、私の背中に手をまわした。
わたしも、少し気恥ずかしく、彼女の背中に手をまわした。

友人は、私をやさしく包みこんだと思ったら、一瞬、キュッ と強く抱きしめ、私を解放しながら「さようなら」とつぶやいた。

その瞬間、彼女が言っていた事が脳裏に浮かんだ。
どれだけ言葉が出来ても、他文化の彼氏はできても、同性の親友はできないと。
同じ文化を持つ友人が出来ても、みな帰って行く。
何度も、取り残された様な孤独な思い。

それは、友人の心の中の寂しさが私の心に素直に伝わった瞬間だった。