2008年1月23日水曜日

大阪府 オオノさま



私は12歳のときに3歳より急性腎炎を患っておりました、10歳の弟が他界し、19歳のときに直腸癌より転移の肺癌で45歳の父が他界しました。

どちらのときも死に目に会っておらず、その死に目に会えなかった理由が大変情けなく、38歳になった今でも後悔の念が度々首をもたげます。


弟は私が物心ついたころからずっと入退院を繰り返し、父や母を奪う憎しみを常に抱いていたのを思い出します。短い命とわかっている子を大切にしてやりたかったという思いが、今親となった私ならわかってあげることができますが、あのときはそれがわからなかった。弟が学校で病気を理由にいじめられたりしているのを知りながらも、完全に見過ごしてきた小さい頃の自分がいました。

そしていよいよ危篤というときに、私は病院で待機していたにもかかわらず、父母の止めるのも聞かず、そろばん塾へ行くからと一人で病院を抜けて、バス停でバスを待ちました。単なる反抗だったのです。

それに本当に弟が死んでしまうなんて心にも思っていませんでした。死ぬということが何か、あまりわかっていませんでした。心配した父がバス停まで車でやって来て、私を家まで送ってくれました。そろばん塾から帰ってきてざわざわした近所の人たちの雰囲気を感じ、何となく弟の死を予感しました。

父は決して口に出して言いませんでしたが、私のせいでたった10歳の息子の死に目に会えなかったであろう父に対して私が抱いた感情は、このまま私の魂がなくなるときに持っていきたいと思います。


その父も短い命で他界しました。父が逝ってしまう前に病院に行ったのはその1週間前…看病で疲れている母と看病の交代の約束をして、死亡当日病室に着いたときにはすでに何もかも片付けられていて、連絡の付かなかった私はその他界を看護師によって知らされることとなりました。

私は、二人ともの葬儀のときに心の中でごめんなさいとつぶやきっ放しでした。それしかいうことがなくて…それでも葬儀はどんどん進行して行きます。でも、私の耳には何も入ってきません。そんなとき、葬儀社の人が“お嬢さん、お花をたくさん入れてあげて。本当にこれで最後よ。本当にこれで最後なのよ。”と言って下さったのを、その声まで覚えています。


(大阪府 : オオノさま)

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