2008年12月20日土曜日

東京都 イマダさま



弟の結婚

弟がようやく結婚しました。
8歳年下の弟は、いつまでたっても私にとっては小さいままでした。
30歳を過ぎたというのに、どうしても子ども扱いをしそうになります。
離れて暮らしているから余計に時が止まったままなのでしょうか。

そんな弟の結婚式。

予想以上になんだか涙が溢れてきそうになって、自分でもとても意外でした。
寂しさなんて感じないと思っていましたが、やっぱり何か寂しさのようなものが私を包むのです。

喜びも安堵感ももちろんあるのですが、やっぱりどこかなぜか寂しくって・・・・

私の小さい弟クン。
もう今日からは小さいはサヨナラですね。
一人の大人として、一家を守る主として、どうぞ大きく大きくなってください。

                        いつも大きいつもりだった姉より

2008年11月25日火曜日

広島県 高橋さま



お稚児参り
 
先日お稚児参りの行列を見かけました。
私も幼稚園の頃に歩いた記憶があります。
 
頭の冠が重たくて、お化粧をされるのもいやで
歩くのがとっても難しくて
とにかく不機嫌だったことを、今でもよく覚えています。
 
 
先日見かけた行列も、嬉しそうなのは親御さんばかりで
子ども達はお世辞にも喜んでいる風には見えませんでした。
 
今となれば、どちらもの気持ちがよくわかって
温かい視線と声援を送りたくなる自分がいて、
なんだかとてもおかしかったです。
 
 
いつの時代も子どもの成長を願い祝う気持ちは同じなのでしょうね。

2008年10月31日金曜日

千葉県 アオキさま



私が2歳の時父が亡くなりました。

もう43年も前のことです。母はそれからずっと一人で私と兄を育ててきてくれました。
しっかり物で頑固な母は、みんなに迷惑をかけたくないと、それぞれが所帯を持っても頑として一緒に暮らそうとはしませんでした。

そんな母も80歳を越しました。
ようやく遠く離れた地に住む兄と一緒に暮らすことになりました。
母は生まれ育ったこの地を踏むことはもうないかもしれません。

母にとって本当によかったことかどうかはわかりませんが
母がこの家を出た日は、私にとっても大きな区切りと決別の日にもなったのでした。

2008年9月22日月曜日

兵庫県 弓場さま



先月こころのひろばで介護の方のエッセイを読んで、わが親の介護してくださった人のことを思い出しました。
私の母親も長い間介護の方にお世話になりました。

なかでも母のお気に入りの若い女性の方がおられ、彼女が来てくださったときは本当に嬉しそうでした。
彼女は母の身体や顔をきれいに拭いてくれた後、エプロンのポケットから自前のクリームを出すのです。
そして手のひらでしっかりのばして、母の頬やおでこに優しく優しくぬってくださるのです。

私のほうがはっとさせられました。

そんな母が亡くなってもう二年が過ぎようとしています。
彼女は、きっとまた別の所で優しい手を差し伸べていてくれているのだろうと思います。

2008年8月19日火曜日

神奈川県 わたらいよしこ さま



2年前に肺がんにおかされ、入院、その後 退院されて、自宅での介護医療となった、
私の患者さん。

ご自宅には 同じく高齢の奥様と長女が1人。

今年の4月に亡くなられ、
最後は眠るように息を引き取られました。

奥様が「あの人がこんな物を残していた。」と差し出した物が、
自己の闘病生活記でした。
その後書きに、
「身内のことで恐縮ですが、一人妻と一人娘の全く献身的な介護には驚き入りました。
どこにそんなエネルギーを持ち合わせていたのでしょう。
今まで自分本位で勝手気ままに生きてきた私は、これを甘んじて受け入れる資格がありません。
これからどう心を入れ替え対処したらよいのでしょうか。
教えてください。
 梅真紅 いとおし妻の 背丈かな 」

読み終えた後、涙が止まりませんでした。

口数の少ない方でしたが、こんなにも謙虚で思いやりのある方だったと
介護の現場にある私が、
まったく気づかなかったことへのふがいなさをしみじみと感じました。

2008年7月22日火曜日

兵庫県 オジマさま



初盆には提灯を贈ると知ったのは、大人になってからのこと。

子どもの時、母方のおばあちゃんの初盆のために、提灯を選びに行きました。
クルクルとピンクやブルーに変わりながら影が映る提灯に、当時の私は心惹かれましたが、母はそういうのはちょっとねぇ・・・・と取り合ってくれませんでした。

母が選んだのは家紋入りの上から吊り下げるタイプのもの。
家紋の存在もその時初めて知りました。

田舎の古いつくりの家にはやっぱりとてもしっくりときて、今でもお盆に行くときちんと吊り下げてあります。

自分の家の家紋をすぐに答えられる人は今、どのくらいいるのでしょう。
語り継いでいかなくてはならないことが、たくさんたくさんあるのに、やっぱり自分も曖昧にしか知らないことが多くて、なんだか情けなくもあります。

母方の実家もだんだん縁遠くなりつつもあり、去年はお盆にいけませんでした。
きっと母が贈ったあの提灯も、代が変われば、もしかしたら物置に眠ったままになるのかもしれないのでしょうね。

灯りがともらないままの提灯が、年々増えていっているであろう日本に、ご先祖様たちはどう思っていらっしゃるのでしょうか。

2008年6月19日木曜日

山口県 ソネさま



父の日によせて           

今年の6月15日は父の日であり、主人の61歳の誕生日でもありました。
子ども達が予約してくれたレストランに皆で食事に行きました。
何年か前まで無口で何も言わない主人はいつも怖いお父さんでした。
そんな主人も、もう61歳、髪は銀白になりました。
テレビを見ながら、一人で愚痴る事が多くなりました。

人は人生の中でいろいろな記念日があります。
その中で毎年やってくるのが誕生日です。
若い頃はそんなに感じなかった記念日が今年はなぜか強く心に感じるのは
父の日に重なったからでしょうか。
それとも、主人のまた一つ増えた眉間のしわのせいでしょうか。

そんな主人から子ども達へのお礼のメッセージ

「誕生日と、父の日が重なりめでたい一日でした
みんなが揃って美味しい食事も出来、大変良い思い出になりました。
自分では余り物事を深く考えないで歩んできた人生でしたが、みんなが一堂に集まって
話をしながらゆっくりとした時を過ごすのが、家族なんだと気づかされました。
仲の良い四人兄弟の親であることを誇りに思います。
これからもいろいろなことはあると思いますが、いつまでも兄弟仲良く歩んでください
本当に有難う」


「いつまでも、元気で、明るい優しいお父さんでいてください。」
子ども達から、お礼への返信が届いたのはあくる日の事でした。

2008年5月15日木曜日

広島県 ホソイさま



5年前、夫婦最初の共同作業ということで、バラの鉢植えのセレモニーを人前式の中で行いました。
施設のロビーに会場があったため、宿泊客、通行人の方々にも見られ、恥ずかしくもありましたが、バラの街ならではの行事で、大変良い思い出になりました。

その時植えたバラはシンボルツリーとして、一昨年新築した家のポストの脇に植え替えました。

先日のこと、子供達を庭で遊ばせていた時、少し目を離した隙に長男が玄関のポーチから転落してしまいました。とっさのことで手を差し伸べる事もできず、あわてて落ちた場所に駆け寄ったところ、なんとそのバラの上に長男が引っかかって止まっていました。バラは半分以上折れながらも、クッションになり長男を助けてくれたのです。

鉢植えの時使った土は両家の庭から持ってきたものでしたので、きっと両家のご先祖さまが長男を守ってくれたのだろう、と妻と話しました。

バラはその後、新しい芽が出てきて、今も家族を静かに見守ってくれています。

2008年4月15日火曜日

奈良県 カキモトさま



77歳の父の喜寿のお祝いに、子どもと孫と大集合した場所は瀬戸内にある小さな島の小さなホテル。

昭和一ケタ生まれの父ですが、フルコースとワインが好きだなんていう、あの時代にしてはダンディーで優しくて、子どもの頃はもちろん今でも自慢の父。

なので、今回のお祝いでは、フルコースを食べさせてくれて、みんな子連れなので他の人がざわざわあまりいなくて、広めの泊まれる部屋があるところ、と探し当てたのが因島にあるこの「ナティーク城山」でした。


プレゼントを誰が渡そうかと悩みに悩み、ホテルの人にお願いして紅白のワインをかごに入れてもらい、長いリボンもつけてもらって、一番年上の高校生がかごを持ち、あとは歳の順にリボンを持ち、孫6人全員で渡しました。

父の嬉しそうなその姿。

照れくさそうな大きな孫に、はしゃいでばかりの小さな孫。

でもその命が確かに繋がっていることを改めて感じた瞬間でした。

本当に穏やかで優しい、家族だけの時間でした。


チェックアウトのとき、ホテルの方が
「これは昨日のワインのラベルです。毎年増えていくといいですね。」
と、きれいにラベルを貼ったアルバムを渡してくださいました。

姉と思わず顔を見合わせたことは、言うまでもありません。

流れるばかりの日常に、やっぱりこんな一節一節がありながら、年月を重ね、深みを増しながら、歴史が出来ていくのでしょうね。

ワインとなんだか似ているわ、なんて今更気が付いてみたりしています。

2008年1月23日水曜日

大阪府 オオノさま



私は12歳のときに3歳より急性腎炎を患っておりました、10歳の弟が他界し、19歳のときに直腸癌より転移の肺癌で45歳の父が他界しました。

どちらのときも死に目に会っておらず、その死に目に会えなかった理由が大変情けなく、38歳になった今でも後悔の念が度々首をもたげます。


弟は私が物心ついたころからずっと入退院を繰り返し、父や母を奪う憎しみを常に抱いていたのを思い出します。短い命とわかっている子を大切にしてやりたかったという思いが、今親となった私ならわかってあげることができますが、あのときはそれがわからなかった。弟が学校で病気を理由にいじめられたりしているのを知りながらも、完全に見過ごしてきた小さい頃の自分がいました。

そしていよいよ危篤というときに、私は病院で待機していたにもかかわらず、父母の止めるのも聞かず、そろばん塾へ行くからと一人で病院を抜けて、バス停でバスを待ちました。単なる反抗だったのです。

それに本当に弟が死んでしまうなんて心にも思っていませんでした。死ぬということが何か、あまりわかっていませんでした。心配した父がバス停まで車でやって来て、私を家まで送ってくれました。そろばん塾から帰ってきてざわざわした近所の人たちの雰囲気を感じ、何となく弟の死を予感しました。

父は決して口に出して言いませんでしたが、私のせいでたった10歳の息子の死に目に会えなかったであろう父に対して私が抱いた感情は、このまま私の魂がなくなるときに持っていきたいと思います。


その父も短い命で他界しました。父が逝ってしまう前に病院に行ったのはその1週間前…看病で疲れている母と看病の交代の約束をして、死亡当日病室に着いたときにはすでに何もかも片付けられていて、連絡の付かなかった私はその他界を看護師によって知らされることとなりました。

私は、二人ともの葬儀のときに心の中でごめんなさいとつぶやきっ放しでした。それしかいうことがなくて…それでも葬儀はどんどん進行して行きます。でも、私の耳には何も入ってきません。そんなとき、葬儀社の人が“お嬢さん、お花をたくさん入れてあげて。本当にこれで最後よ。本当にこれで最後なのよ。”と言って下さったのを、その声まで覚えています。


(大阪府 : オオノさま)

2008年1月9日水曜日

群馬県 ヤマグチさま



幸せなことに今まで人の死にあまり関わったことのなかった私が、物心ついて初めて体験したのが祖父のお葬式でした。

内孫ということもあり、無口で物静かな祖父でしたがいつも見守るように可愛がってくれました。その祖父の死。

私は、現実味がないにも関わらず、次から次へと零れてくる涙を止めることが出来ませんでした。
お葬式の朝は、暖かい四月の雨が静かに降っていました。

「ご焼香に来てくれる皆さん、雨の中大変だね」などと母と話しながら慌ただしく支度をしているうちに時間になり、お葬式が始まりました。すると、いままで降っていた雨がさぁっと、上がったのです。

相変わらず雲は薄黒くて今にも涙雨を零しそうでしたが、それでもお葬式が終わるまで喪服が濡れることはありませんでした。

来てくださった皆さんの中からは、祖父の人徳だね、祖父が雨を止ませてくれたんだねという声がちらほら聞こえました。

皆から愛され信頼されていた祖父を思い、静かに仏前に手を合わせました。

(群馬県 : ヤマグチさま)