2007年12月22日土曜日

埼玉県 トヤマさま



1年半前の冬、大好きな祖母が86歳で亡くなりました。

70代になるまでテニスをしていた、元気で明るい、友達の多い祖母でした。気の強い祖母でしたので、もっともっと長生きすると思っていました。

ハイカラな祖母で、スパゲティやパンが大好きでした。病気入院中も私がお見舞いに作って持って行った手作りパンを喜んで食べていました。もちろん、棺の中に、旅のお供に、とパンを入れてあげました。きっとあちらの世界に行く途中、道々出会った人たちに、声を掛けて、一緒に食べたに違いありません。

そんな元気で明るい祖母は、自称「晴れ女」でした。

お通夜の日、直前まで降っていた雪が止み、晴れ間が出ました。お葬式の日ももちろん晴れました。四十九日も、一周忌も、祖母の故郷の雪の多い山間部の町の空を晴れさせました。そうやって晴れると、親族皆で「おばあちゃん、そこに来てるね。」と言って、亡くなった祖母を近くに感じるのでした。

きっと、これから先も、3回忌の時も、その後もずっとずっと、晴れた空の下、祖母に会えることでしょう。

(埼玉県 : トヤマさま)

2007年12月7日金曜日

静岡県 アサカさま



おじいちゃんは頑固でわがままで、いつも母を困らせていた。
母は嫁の立場で文句も言えず、そんな中、私はいい喧嘩相手だった。

「100まで生きる」が口癖だったじいちゃんだが92年の冬、お正月を家で過ごすこともできずに亡くなった。

明け方病院に駆けつけた私を意識のないじいちゃんは、待っていた。
手を握ってあげた時じいちゃんの目から涙が一粒、誰も気づかなかっただろう。私も言わなかった。

じいちゃんは待っていてくれたんだいちばんの喧嘩相手を。
手をつないだまま息をひきとった。

(静岡県 : アサカさま)

2007年11月21日水曜日

神奈川県 イガラシさま



祖父は自分が死んだ時のために、事前に遺影を写真やさんで撮っていたようで、いつもは笑わないのに、笑顔の遺影が届きました。

また、いつもの床屋さんには、棺に入る前に散髪して欲しいと頼んでいたようで、床屋さんが来て散髪してくれました。

周りに迷惑を掛けないようにと考えたのだと思います。

その後、お葬式では、お坊さんの数珠が切れ、バラバラになりました。それはとても珍しく良いことなのだそうです。

その後、一周忌の時にも同じように数珠が切れました。祖父の人柄をあらわしているのだと感じました。


(神奈川県 : イガラシさま)

2007年11月7日水曜日

福井県 コンドウさま



数年前、親友が若くして病気で亡くなりました。仕事に私生活に何事にも一生懸命な彼女でした。

特に亡くなるまでの1年は彼女が必死に病魔と闘っているのを間近で見ていながら、何も出来ない自分にもどかしい思いでいっぱいでした。結局何も出来ずに突然彼女は亡くなってしまい、お葬式では悲しさと悔しさで涙が止まりませんでした。

本当は私が彼女を助けられたのではないかという想いがどこかにあったのです。
その後、自分も病気にかかりました。生きているのが嫌になって投げ出したくなる時が何度もありました。

そんな風にくじけそうになった時に思い出すのは、親友の闘う姿勢でした。

闘わずに逃げようとする自分は恥ずかしい、こんな所で自分が負けるわけにはいかないと思いました。そのおかげかずいぶん快方に向かいました。

今思う事は、私が親友を助けられたかどうかよりも、親友は私を助けてくれるために私と出会ってくれた事を大切にして生きよう、という事です。

そして、自分の人生を精一杯生きる事が、親友に対する一番の供養かもしれないと思うのです。


(福井県 : コンドウさま)

2007年10月31日水曜日

新潟県 ヨシノさま



初婚で私より年下の、さらに長男でもある主人と、娘がいる私が家族になれることがやっと決まり、それを誰よりも喜んでくれていた主人の祖父。

とても挙式を楽しみにしてくれておりましたが、風邪を引いたことをきっかけに体調を少しずつ崩し、式の1週間前に残念ながら亡くなってしまいました。

挙式と披露宴を延期することもできない期日であり、おじいちゃんが楽しみにしていた披露宴パーティは予定通り、おじいちゃんのお葬儀の1週間後にとりおこないました。

なんともめまぐるしい6月を送った事!

親族みんなが複雑な心境で冠婚葬祭を行ったわけですが、両家にとっては悲しいながら、おじいちゃんが少々複雑でぎくしゃくしがちな宴を、毎週顔を合わせる場所を作ってくれたお陰で、滞りなく気持ちよく行えた、とあとで皆と話しました。

ありがとうおじいちゃん!


(新潟県 : ヨシノさま)

2007年10月17日水曜日

北海道 サカネさま



父が他界したとき私は高校を卒業したばかりで、母も悲しみのあまりずっと泣いてばかりでどうしたらよいか分かりませんでした。

そんな時、葬儀社の方たちは親身になって準備をしてくれたりしていました。

今思えばちゃんとしたお葬式を出してあげられたのはこの人たちのおかげでもあり、父が今までお世話になった方たちもたくさん来てくれたからこそ今でも心に残る式になったんだと思います。

私の父はとても厳しくいつも怒られてばかり。

本音はいつも母に言っていたようで、そういえばこんなこと言ってたよ、と今になって教えてもらったりすることもあります。

いつもわがまま言ったり心配かけてきたんだなあと今さらながら反省したりもして。

もっといっぱい話したり笑ったり、そして私の運転する車に横に乗せてあげたかったなあと、今でも思っています。

(北海道 : サカネさま)

2007年9月26日水曜日

福岡県 サトウさま



子供のときに生き別れになった祖父のお葬式に出ることが叶いました。

母方の祖父だったのですが、母は私が7つのときに亡くなり、その後父が再婚したこともあってか、私たち兄妹は実の祖父母と生き別れてしまったのです。

その後、私が結婚して姓が変わったのをきっかけに再会することができました。残念ながら祖母はもう鬼籍の人でしたが・・・。

父が一方的に絶縁したような状態でしたので、親戚たちが私たちを受け入れてはくれないだろうと思っていたのですが、祖父が亡くなったとき、母の妹である叔母が真っ先に私に知らせてくれたのです。

「断る理由がないもの」と、葬儀への参列を承諾してくれたのです。

兄にとっては再会が最後のお別れにもなってしまいましたが、二度と会えないと思っていた大好きな実の祖父の最期をみとれて、最初で最後のおじいちゃん孝行ができたと思っています。

そしてまた、きっとおじいちゃんが最後に会いたいと私たちを呼んでくれたのではないかとも思っています。

(福岡県 : サトウさま)

2007年9月12日水曜日

大阪府 ウエナカさま



これまでも何度かお葬式に参列した。

だが、自分の母親のお葬式がこんなに早く訪れるとは、全く予期していなかった。

母はとても楽天的で、のんびりしていて、きっと長生きしてくれるだろうなあと、漠然と思っていた。でもちょうど一年前、祖母が亡くなってから、母は全く今までの明るさを失ってしまい、家からほとんど出なくなり、9ヵ月後、とうとう食べるのを拒否し、あっけなく、死を迎えてしまった。

父のあんなにうろたえた様子は初めて見た。

それからお葬式まで、忙しい時間が過ぎた。お葬式の段取りを葬儀屋さんと話し合っていく中で、母の姿を出来るだけ、元気な時のように見えるようにと、お化粧や洋服を着せてもらうことが可能だと聞いた。

父はすぐに賛成し、その夜、私達家族は母の身に着けるものを選んだ。以前母が、コーラスをしている時に、着ていたドレスと父のお土産のスカーフ。それらを身に纏った母は本当に美しく、幸せそうだった。それがせめてもの救いである。

これから何度となく思い出すであろう母の葬儀は、いつも美しく、元気な姿であることが、嬉しい。

(大阪府 : ウエナカさま)

2007年8月22日水曜日

滋賀県 オオノさま



高校の恩師のお葬式だったのですがお葬式とは言わず「お別れ会」としてホテルで行われました。(密葬なども行われていないようです)

場内には故人の好きだったジャズが流れ、真っ白なお花に囲まれた遺影。
仲の良かった先生からのエピソード、出席者の献花の後は出席者でテーブルとイスを設営して、教え子からの思い出話が語られました(挙手で話していました)

前半は涙が出ましたが後半は心温まり、また時には笑いまでこぼれるとてもいいお葬式でした。

恩師の人柄が本当に偲ばれます。

(滋賀県 : オオノさま)

2007年8月8日水曜日

千葉県 コバヤシさま



4年前急逝してしまった、実母のお葬式です。

突然のことで訳のわかぬまま、喪主をしました。
生前きまじめだった母、葬儀中信じられぬ事がありました。

祭壇を泣きながら見つめていると、花が一部だけ不思議な動きをしてるのに気づいたのです。
花の動きと参列者の顔を見て解りました。母は自分の葬儀に来てくれた人々に礼を述べていたのです。

信じられない話と思われますが…

確かに主人が焼香するとき大きく揺れ「この子を宜しくお願いします」と言わんばかりに揺れてました。

普段霊的なものには関わらないことにしてる私ですが、母の思いやりに涙が止まらずには居られませんでした。

(千葉県 : コバヤシさま)

2007年7月25日水曜日

福島県 ワカナさま



父は、寡黙な明治生まれでした。

祖父や父が手入れをした杉の木を使い、父がコツコツ貯めたお金で住宅の改築をすることになりました。

そんな時、父が脳梗塞で入院しました。

症状が進み、家族を認識できない状態になり、早く、家に帰りたい、帰りたいと言っていた父は、きっと私達家族よりも、家の完成を待っていたに違いありません。
もう少しで完成の一歩手前で父は亡くなりました。

仮住まいから葬式は出したくないと思っていた私達でしたので、父の葬式が新築した家の初めての催事に使えたのが、何よりの恩返しだったと20年が過ぎた今でも思っています。

(福島県 : ワカナさま)

2007年7月11日水曜日

奈良県 ハタさま



父の友人でしたが、この6月に亡くなりました。

自由を好み、枠にはまることを嫌い、好きなアウトドア生活を満喫しておられました。
ボートにバイクに、風を切って走り去ってしまった突然の訃報に号泣しました。

いつも笑顔で誰にでも気軽に声を掛けてくれる、そんな素敵な人でした。

そんな人柄を慕ってか、若い人たちが葬儀にたくさんかけつけてきて、愛車のバイクのエンジン音と霊柩車の発車のクラクションが同時に鳴り響き、まるでまだ生きて単車に乗って走り出しそうなそんな感じでした。

まだ亡くなったことすら信じられませんが、ご冥福をお祈りして、ここに合掌致します。


(奈良県 : ハタさま)

2007年6月20日水曜日

大阪府 ヤマグチさま



私の祖母のお葬式の事です。

祖母は生前とても愛想がよく近所にたくさんの友人知人がいました。入退院を繰り返していたので、またすぐ退院すると思っていましたが別れは本当に突然でした。

バタバタを母や叔父・叔母がお葬式の手配を始め、会場となったのが祖母が住む自治会館や会場でなく、叔父や叔母の都合で家から車で1時間も離れた会場に決まりました。

お通夜も終えお葬式当日、告別式にはたくさんの方々がいらっしゃいましたが、本当に祖母と親しかった人は1割ほどで、それ以外はいわゆる「付き合い」というのでしょうか?聞いたこともないような議員さん、叔父たちの会社関係の人。

賑わいだけはありました。

本当に祖母と親しかった人は高齢なので、バスで1時間かけてくるのには負担だったと思います。
私は孫なので意見はできませんが、とても疑問でした。
派手でなくていいのです。本当に祖母を思い出し別れを惜しんでくれる人たちに見送って欲しかったのです。

天国で祖母はなんて思ってるのでしょう?私は気がかりでなりません。
今は祖母の好きだった水ナスをほおばりながら思いを馳せています。

(大阪府 : ヤマグチさま)

2007年6月6日水曜日

広島県 イシダさま



本当に普通、って言うと変に聞こえるかもしれませんが、でも葬祭会館でお葬式をするごく普通のものだったんです。

ただ、親族の悲しみが大きくてぐったりしている時に、会館の職員の方の優しさが嬉しかったことを伝えたくて。

目立たず動いてくださっているのですが、それでもちょっとした時にお茶を下さったり声をかけてくださったり。

どうしようもない悲しみの中であっても、心配りが嬉しかったです。

(広島県 : イシダさま)

2007年5月23日水曜日

兵庫県 マエゾノさま



私の父と母は、口喧嘩が絶えない夫婦でした。

私が結婚してたまに実家へ帰ると必ず、母からは父への愚痴を聞かされ、父からは母の愚痴を聞かされていました。
私は「この両親はよほど気があわないのだ。離婚しないのが不思議だ」と思っていました。

3年前、母が亡くなった時、通夜から葬儀の直前まで、父はずっと母の前で何も言わず座っていました。

その姿をみて私はやっと気がつきました。

父と母が口喧嘩をしてると思っていたのは、実はコミュニケーションだったのだ。愛情表現だったのだ。
本当に仲が悪いのなら、口もきかないはず。口喧嘩のような会話のある毎日、それは仲がいい証拠だったのだ。喧嘩相手のいなくなった父は、急に無口になりました。

葬儀の時、一言だけ母に向かって言葉をかけた、その一言は

「ママ、ありがとうな。息子と娘を生んで、いい子供に育ててくれて。」

私は、決して良い娘ではないけれど・・・。母の代わりにはなれないけれど・・・。
これからは母のいないぶん、父を守ってあげようと思いました。

(兵庫県 : マエゾノさま)

2007年5月9日水曜日

東京都 カトウさま


私の両親は、私が幼い頃事業を始め留守がちだった為、母方の祖母に預けられ、祖母との過ごす時間が多い私に祖母は、とても優しくそして厳しく育ててくれました。

年頃になり祖母の気持ちに答える事も少なくなり、祖母は一人でいる事が多く寂しそうでした。

ある日頭が痛いと言い倒れ、くもまっか出血で入院3日目の夜私が駆け付けると、意識が無く機械で生きている状態でした。
足には、死斑が出て泣きながらこすりおばあちゃんと呼ぶと、意識が無いはずの祖母は、立ち上がりそうな程力強く頷いてくれました。

それが最後でした。

お葬式では、綺麗に薄化粧をされみんなに見守られ立派なお葬式でした。
夜大きな真っ赤なお月様が私たちの帰り道を照らしてくれていた事が20年以上過ぎても忘れることが出来ません。

今でもお墓参りは、欠かすことの出来ない私の習慣です。


(東京都 : カトウさま)

2007年4月27日金曜日

神奈川県 ニシジマさま



私の祖父のお葬式の時でした。

祖父には18人の孫がいます。
普段はそれぞれの道を歩んでいる従兄弟達ですが、お葬式の時は一致団結して仕事を分担しテキパキとこなしていきました。

祖父のお陰で18人の孫全員が集まることができ、近況報告を兼ねてゆっくり語り合えました。

祖父を失ったことは大変悲しかったですが、親戚を沢山作ってくれ守って来てくれた事への感謝を改めて感じた日でした。

(神奈川県 : ニシジマさま)

2007年4月11日水曜日

埼玉県 イケダさま



小学6年生のとき祖父が亡くなり初めてお葬式というものに参列しました。

そのときは悲しみというよりも、ひとつの映画を撮っているような錯覚を起こすくらい、心に残っています。

お葬式では自分と同じ苗字の、生まれて初めて聞く関西弁をしゃべる親戚が結構いて、外国人と話している気分になりました。

隣に住むオバちゃんが、きれいな喪服姿にエプロンを付けて涙を流しながら手伝いをしている姿を不思議に思いました。

おばあちゃんの涙しているとこもはじめて見たな!

私は泣かなかったけど、人が亡くなるという出来事を必死に受け止めていたんだよな・・


(埼玉県 : イケダさま)

2007年3月21日水曜日

大阪府 タカハシさま



祖母のお葬式でのエピソード。

父は一生懸命祖母の介護をしていました。何年間もの献身的な介護の上、祖母は90代半ばで大往生。
「子供として、できるだけの事をしてあげられた、それには満足してる」
と悲しみつつも強がっていた父だったが…いざ出棺の時になると、こらえきれずに棺にしがみついて大泣きしていた。

父の「男泣き」を見たのはこれが最初で最後。この姿を見て、私は
「この人の娘で良かった」とじ~んときて同じく大泣きしてしまった。

こんな優しい父を、私は今でも誇りに思っている。


(大阪府 : タカハシさま)

2007年3月7日水曜日

三重県 シノハラさま



6年前母の一周忌の時の事。寺で法事をした際、中学生の娘は正座で足がしびれてしまった。突然焼香に呼ばれ、立った娘が一歩足を出し、そのままグキッ!足首をひねって捻挫。

ドッと親戚から笑いが…。

それで、場が一気に和みました。

(三重県 : シノハラさま)

2007年2月21日水曜日

東京都 ツチボリさま



私が20歳で亡くした父のお葬式。

父は再婚で前妻との間に娘さんが一人。私はこれまで会った事もその存在すら知らなかった。
母曰く、娘さんがどんなに会いたがっても、中々会おうとはしなかったとの事。それは生前に父が私たち姉妹、そして母を大切にしてくれていた証拠。

母は父の優しさを十分に分かっていた反面、会いたいのに会えない娘さんが気がかりだったよう。
父が亡くなったその日、悲しみに暮れながらも母は以前に聞いた娘さんの連絡先へ悲しみの報告をした。そして親族席に席を設けてあげて一緒に参列をしました。

私はその時初めて異母姉と会ったのです。

永遠のお別れではあるけれど、父が残してくれた家族への愛、母の強さ、優しさに触れる事が出来たのはかけがえのないものだと、胸が熱くなったのを覚えています。

(東京都 : ツチボリさま)

2007年2月7日水曜日

香川県 イケダさま



私の祖母が94歳で亡くなったのですが、土地柄「土葬」となりました。

私は初めて土葬を見たのですが、家族やご近所さんが故人の為に白い着物を縫ったり、棺桶を作ったり、一生懸命送りだす用意をしているのを見て、死を自然なものとして受け入れる姿に感動しました。

葬儀社が行う形だけの物とは、全く違うように感じました。

(香川県 : イケダさま)

2007年1月24日水曜日

北海道 ウエマツさま



昔とある山岳会に入会しており、山仲間2人が正月に冬の利尻山で遭難死しました。

仲間と捜索に行って、一人だけは発見することができましたが、もう一人は発見できず、その年の夏に雪の中から出て来ました。

2人とも若く、子供も小さかったので、お葬式には山道具を一緒に棺の中に入れてやりました。

先に発見した仲間は、子供がまだ4歳で一体何が行われているのか分からない様子で、大勢の人がいて楽しそうにしていたのが印象的でした。

遺影は山に行った時の写真で、遺品となった山道具も置かれています。本当に山が好きな奴でしたが、妻と子供を残して自分だけ亡くなって、残念でした。

4歳の子供は自分の子供と同じ歳で、生きていれば高校生の子供となっていたはずです。夏に発見された仲間は、残念ながら損傷が激しく顔を見ることはできず、悲しみを倍増させたと思います。
2人とも本当に山好きの良い仲間でした。

この2人には、一緒に行くことで誘われていましたが、自分は家族と一緒に過ごすこととしていました。

(北海道 : ウエマツさま)

2007年1月10日水曜日

埼玉県 タグチさま



先月のはじめに主人の祖母が89歳で亡くなりました。

同居こそしていませんでしたが、毎週のようにおばあちゃんの家に遊びに行って、小学校低学年と幼稚園児の子供と一緒に遊んだり、ごはんを食べたりしてくれたやさしい方でした。

子供たちにとっては初めてのお葬式で、あまり理解はできていなかったようでしたが、最後に子供たちとよく遊んでくれた、かるたとトランプを棺に入れ釘を打ったとき、幼稚園児の息子が
「おばあちゃんが出られなくなるからそれしないで、やめてよ、やめてよ。」
と言い出したのです。

こんな小さな子供にその場で言い聞かせる言葉も見つからず、子供の肩を抱いていることしかできませんでした。

(埼玉県 : タグチさま)